昭和四十三年九月十日 月例祭


 神様に安心してもらえる信心を頂いていると私は思う。教祖様が、神様に喜んで頂くという、神様に安心して頂くという信心。そんなら、神様はどういうような氏子が状態の時に安心してくだささるかと。どういう信心しておかげを受けてくれよとおっしゃるから、信心してだんだんおかげを頂いて財産も出来た。健康も頂いた。家庭も円満にいっておる。それだから、神様が、安心しておってくださっている、というのではないのです。だんだん調子がようなった。商売にももうどんどん、この頃では、赤字から、黒字が出るようになった。もう安心と神様は思いなさらん、ね。あれはこの頃ちいとばかり儲けだしよるが、またいらんことに手を出しよるがと言うふうに。かえって神様が心配なさるようなおかげの頂き方では駄目だと思う。ただ、今またどのような修行中であり、ましてもどのような中でありましてもあの氏子は神様が安心してくださるような信心を一つ身につけていきたいと。どうでしょうか皆さん、自分はまだおかげを頂ききっていない、ね。まあ、いうなら、修行の真中である。けれどもね、神様が安心しておってくださるに違いないと思えるときには、自分自身もおかげの確信というかね、確信への道をひたすらに歩かして頂いておる時なんです。こういう私は、信者氏子の上に神様が安心のおかげを神様は頂いてくださる。そこに私どもの安心が又約束される。そこに頂けるところのおかげならいうならこの氏子ならいかにどのようなおかげをやっても大丈夫という安心してくださるおかげ、その先に神様に喜んで頂く信心があるね、そういう神様に一応安心して頂いて、して頂けるような信心をまず身につけさせてもらって、おかげを頂く。ですから、そういう方向に皆さんが向きを変えておかなければいけません。これはね、たとえば、信心が出来ておる、出来ていないとかいうことでなないです。どういう場合に神様が安心してくださるだろう。*神様は、氏子がどのような難儀な中にあっても元気な心で生き生きと神様に打ち向こうておるときには安心じゃと言うておられる。神様が安心してござる、ね。これは取次者の者もそこんところをよく心がけておかなきゃいけないと思う。それは困った。それは大変と取次者がそういうことでは、いけんね。そういう中にあっても、どういう難儀な中にあってもね、それこそもう私の家は潰れてしまった、というなかにあっても生き生きとして神様におすがりしておる時ならば大丈夫じゃと、そういう中にあっても神様に安心してもらえるということがどんな時でも出来ておれるということが分かる。氏子がそういう願いに燃えている時、そういう信心に燃えているなら神様は安心してくださる、ね。氏子の信心がね、少し元気がなくなった時、生き生きとしたものがなくなった時、それは形の上にどのようにおかげをうけておってもどのように例えば神様に喜んで頂けるような御用なら御用が出来ておっても、神様はやっぱりご心配、不安でおありになる。ですから、神様に安心して頂けるまずおかげを頂かなければ私どもが安心のおかげを受けられないということになる。ですから、私のような生き方で神様に安心してくださるだろうか、だから、何時もこれは思う*とかなきあいかんね。先ほど、私は若先生がお話しておるのを聞いてからこれは私は心配しておらんけれど、若先生自身はどのように思うとるかと言うと、若先生は自分のようなありがたい生活を頂いておるものはおらん、ありがたい。私はその一言を聞かして頂いては、あー私は老婆心だったんだなあ、と思った。ああいう考え方なら神様は安心してくださるだろうと思うた。私からみると、本人は何というだらしのない性格だろうかともう親にもいらん子どもであったとたとえば思うたことがあるんです。そんなことではいくもんかと思うことばかり。ところが、御本人達はその反対、私のようにおかげを頂いておるものはおるまいとそれもどういうことかというと、その私の性格がすばらしい、私が一番心配しておるところをね、神様は一つも心配してござらんという感じがする、ね。結局人間心を使うて心配しておるんだなあということが分かるね。皆さんもそういうおかげを頂いたら神様は安心してくださる。自分でです、もういつどういうおかげを落とすか分からない。自分のような不安定なものはおらん。自分のような汚いものはおらないですね。もういつ自分はおかげをおとすか分からんといったようなですね状態なものに神様は安心してくださるはずはないですね。それはぎりぎりのところですよ。やはり自分のようなものかというところをぎりぎり分からして頂き、このようなものでも神様はおかげをくださってあるということに*一ぱしの喜びを感じさせて頂いてその喜びにすがって信心を進めていくということになって行かなければならないのですけれどもね、ですから、なかなか人間の考えでは分からない、もう本当に分からないことがあるんですよ。一つの事をですね、もう思い込んでですね、おると。***の先生が、私は何時も感じる。この人はおかげうけんとは不思議でたまらんと思うとる。なるほど、毎日18年間お参り続けておる。毎日参ってくる。そして夜もなから*なきやあー夜中もない自分が頼****


今*電話したと思うたら又電話かけて来る。とにかくお取次頂いてお願いをすればおかげを頂く不安な時はお取次を頂きやあええとこれは思い込んでおる。ですから、同じ事。


先日も私を*いふ院に連れて行かなきゃならん。いふ院とは、温泉、あそこは、丸洲の軽井沢を目指して別荘地帯が出来ておる。そこの社長という人が大変私と会いたいと言うておる。私の話をしたんです。だから先生にぜひその行って会うてもらいたいという訳なんです。秋永先生と高橋さんと一緒にお供してくださって。昨日、一昨日朝の御祈念とお届けが終わってから参りました。夜の12時あちらを発ってこちらに帰ったのが、2時半でした。本当に世の中には色々な人がたくさんおるなあと思ってから見聞を広げて参りましたのですけどですね、例えばその時もそうです。もう、その前の日から、もう産気づいて生まれなさる。その妊産婦の方を預かってなさる。産婦人科ですから。ですから、先生明日行く前どうぞお*して。


ところが、行く前にとうとう生まれなかったんです。先生明日生まれるようお願いします、というようなこと平気で願えるような人、そしてそれを信じてるです。それはちょっと不安があるかもわからん。先生明日さしつかえんようお願いします。ところが今朝がた参ってきて、おかげ頂きました。昨日は疲れてから、今日生まれんかったらどうするかと思った。ところが今朝がた生まれました。おかげ頂きました。私はね、そう言うね。親と子の中にはね、そういう何にもないんですね。

私は、そういう心の状態を私は形の上でも親先生の



けれど神様に向けてはですね。だから、この氏子が日々合楽にお引き寄せ頂いて御理解も頂かんね、ただ拝みません。そしてからわざわざ自動車で帰って行く。そして帰ったら、又すぐ戻って来る。今から仕事をしますから**ですからとまあお取次一本にすがっていく感じなんですね。そして、自分の助かりというのが分かるんですけどもね。ただ親先生にお取次頂ければおかげを頂けるということだけは、だれよりも確信しておるようですね。それでもみんな一生懸命拝んであたり、一生懸命御祈念してあったりするのが自分では分からんようです。それをお互いまねたら、こりゃあ、どこまでも親先生の信心のことですから、親先生の例えば私の勝*場合もそうですよ。私は、勝*の真似をしたら勝*の親の私が目に余っておるのですから。皆さんが若先生の真似をしたらいかんのです。けど、してよいようには、神様が安心してくださるようなものをもっておる。親先生の場合もそうです。人間には分からない。そこでいうなら、若先生やら**先生やら特別はなれた。
***私ども全部が、私結局**それではいけないと。**である私達はそれではいけない。私どもが若先生の真似をしよったら、おそらくいっぺんにおそらく首になるだろうと思う。私が若先生に話をしようたら、私が若先生のようなあり方に皆さんがなられたら、もうそれこそ合楽は立ちませんでしょう。ですから、私ども**はどういうことであるかとどういうことでるならば、神様に安心してもらえるか神様に安心してもらえる氏子になりたい。神様にあの氏子は、安心だと思われる信心を頂きたい。神様にあの氏子はなるほど貧乏しておる。病気しておる。難儀をかかえておる。けれども、けれども、あの氏子は安心だと思われる信心を頂きたい。そうなければ、こちらは安心のおかげ頂きません。それを願わずしてそれを焦点におかずにもしあなた方が安心をしておるならばその安心は間違った安心、その安心は本当の安心ではないということなるのです。そこで例えばどういうような毎日お参りをしようければ、*よかろうということでは、お参りの焦点が信心の稽古に通うておるという氏子はまあ神様は安心してくださると思うね。信心の稽古に日々通うておる。例えば、日々信心の稽古に本当に取り組んでおる。そして、どのような場合、どのような事でも、それをもって信心の稽古とさせて頂く心がけの人、これならば、間違いなし。神様は、あの氏子なら大丈夫と。大丈夫とはいかんにしてもやや神様が安心してくださる。どんなに例えば辛抱強くてもですよ。どんなに素晴らしいことがいえておっても、そのことに直面すると全然信心をぬきにしてしまう人がある。これによってわからしてもらう。これによって信心の稽古をさせて頂こう、というような事なくしてしまう人がある。これは神様がいよいよ私は言うならご心配をかける氏子とはそういう氏子だと思う。どういう中におっても、それによって信心の稽古をさせて頂くんだと何時も心が信心の稽古に向かっておる人、神様が安心してくださるという信心とはそういうことだと思う。次にはね、何かに直面した時、いうなら、ある意味合にたたかれる場合、暗い思いをする場合、いつも心に信心、稽古がぬけておりますよ。ぬけておりますけど、その時には真っ黒になってしまっておる。昼と夜とこれで良かろうと思うほど真っ黒になってしまう。たたかれるとそれで挫折する。元気な心がなくなってしまう。これでは、神様はいよいよの時安心してくださいませんね。何かに直面すると必ず元気の出る人。何かがあるとそのたんびに必ずそれのおかげで信心進めて行く人。私はそう言う意味合でですね、神様に私は何時もご心配をかけどおしである。けれども、そう言う意味合でも私は神様は何時もあの氏子は大坪総一郎は、あれだけは安心と思っていてくださるような気がする。どんな事があってもあるだんびにおかして頂いている。今朝から朝の御祈念に久しぶりに*昭先生が参ってきておりました。この頃どうも体が悪いということで私はどうもかんにさわることがあった。どうもこの頃信心疲れ*なにが信心疲れか。毎朝参って来るので疲れるらしいですよ。この頃どうも元気がない。ああ、この頃信心疲れ、信心すりゃますます元気にならにゃいかんとに。信心疲れ、私はそれを重いよった。案の定、体が悪いとか、胃が悪いとか何とかいうて思わしてもらっとる。今度先日から、何ですか展示会をいたしております。展示会の時にももちろん体が悪かったから、お願いに出てこられる。毎日毎日その電話をかけてから、どうやったと聞いて来られる。高橋さんの方が心配しておる。毎日その日の事、お願いしておる。本人は、としておる。それから、この頃展示会終わってすぐおいでになると思うとったが、出てこん。*月例祭に参る気持ちで思うとじゃろうが、ところが、今朝から参ってきた。参ってきたから私はどう****構えて、***黙って頭を下げてからすーと***親の心子知らずとは、このことじゃろと思うた。何かも御*礼してこうこうでしたからと言えば、そうやったか、おかげいただかにゃとかぼくはいいたいところ。ただお*だけする。それからものの10分か15分たったじゃろうかと頭で感じたんです。今帰ったかのうと思うた時に文雄先生から電話ですと言う。今帰った。自動車とは早かもん。もう帰った。私は変わらして頂いた。今、追突しました。他の自動車に追突しました。追突されたか思うたら、追突した。それであなた相手に怪我はされることはなかったけれども、ところがその私は、今日電話で追突したと言った。その声が弾んでおったこと。私は本当に良かったと思いました。本当にそげん思うた。もうなにかしら元気がない時そういう事があった時ぱーっと元気がでたんですよ。今日夕方お祭りをした時、とにかくとにかくこんなおかげ頂いたとニコニコしておかげ頂いたと言うて信心を取り戻せる人、そんな場合に、人間ですからね、色々なことがあるんでるよ。けれども、たたかれたら、しゃんとする人、今まで私は良かったと思わなかったけれども今日私は*おきずき頂いて途端にしゃんとしておる事こういう信心なら、まず皆さん方、例えばどういうこと人が言うてもよかがね。*話せば、間違いがあるがなーと言うておれるように私が安心しておられるように神様も安心しておってくださる。ところがたまたま朝のお参りして帰りようたら、もうこげんことがあったと言うてから。こういう人では、神様にいよいよ御心配を深くしていく人なんです。日頃の信心は何処へやってるだろう。日頃の信心はどうなっただろうと神様が思いなさるような信心ではいけんのです。ちょっとたたかれたらですね。はあとすぐに水揚げが出来るような人、草の根でもちょっとしおれてくると水つけますとね、たたくとずっとそこから水が、**もそういうものを感じさせられる。電話でも感じました。又、今晩会うてみてもものすごく感じました。どんなにすばらしいよい信心だ、よい性格だと人から見られても、自分自身がよい性格とは思い切らず、たとえなら、本当にこんな事でどうするじゃろかと思う。若先生の場合、自分自身がおかげを受けておるんですからね。そのために周囲が修行させられます。私も今日***お参りして思わして頂いたんです。もう親先生が毎日はろうてくださいます。今度大祭の事も手術の事もお届けするつもりで行ったんです。お届けする気がなくなってしまう。その後、今日参っておると思ったら、参っておらん。だがら月並祭のは何時も祭員でおかげ頂いておるとにね。勝彦さんはお参りしとらん。朝の御祈念頂いて寝てから寝忘れしたんでしょうね、きっと。それでもう一番困ったのは私です。この私が*とるけん、*自分さえ**この時何時もひっかからないこの人は何時も平気で神ながらに今日はおかげ頂いた。意地悪となったらおやじ、けれども子供のために私は思うんです。神ながら神ながうと思う。私が参んなさいなというなかけ*。神様がそう言う働きをくださったんだから。親先生の心の中にその穏やかでないということもおかげだと思えて帰って来たんですけれどやっぱりあまり気分のいいものではないですよね。自分の性格にですね、自分の性格に惚れ込めるというか、自分がおかげを頂いておるなあと思えれる人、これは神様がこうなったものに対して喜びを感じておるのですから。おかげを頂かんはずがないですよ。だから、この辺がもうちょっと迷信と何か紙一重というのですから。その辺の所もちろんこうお話を頂かなければなりませんけれど、私ども信心させて頂く日々お参りさせて頂いてお取次させて頂いて一時が万事、どのような事でもお取次させて頂いておるというような場合なんかこれは私がですよ、神様ではない。***わたしが安心できる、はあ今あの人があそこによってこうしよる。ああいう難儀に取り組んでいると私が知っておるということが安心です。それがどういう難儀な問題であろうが私は安心です。ですから、私が神様に通うておる限り私は安心だと思うのです。ですから、言うならば私と皆さんの間がもっともっと密になっていかなければいけないということ、同時にただ今私が申しましたようにお互い信心の焦点という*ひがねおかげを頂いて神様に喜んで頂けるような御用が出来るようなおかげを頂きたいといったようなことでは神様は*お喜んでなさらんと実際はね、本当に神様に安心して頂ける氏子にならして頂きたいと願う信心。*今私が思うておることは、はたして神様が安心してくださるだろうか。そんなところをですね、求め求めしていくような信心に神様はおかげをくださる。どのようなことに直面しても直面すればするほどに、元気の出る信心、これならば神様は安心してくださる。どうぞ、その神様が安心して頂ける信心、何時も私どもが安心のおかげを頂きたい。ですから、安心のおかげを頂きたいなら、まず神様に安心して頂ける信心を先に願わなければならない。その先に神様に喜んで頂くという信心がある。私どもはそこん所を頂わずして神様に喜んで頂ける。もう何もお届けがないと神様がお届けせんとすることがなかと神様が*こんでくださること、皆が思うとしたら、間違いですよ。もう日々どんな深刻な問題でもええから、それこそ親先生に御心配かけることがあってもそのお取次が頂いていける間は神様は安心しておってくださっている。そういう所からお互い信心を頂いて神様に安心して頂ける氏子にお取り立て頂けるいや今一日でありますといったような願い。そこから、私はいわゆる*安心実妙といったような大変な安心のおかげを頂ける。その安心のおかげの中に、頂けるところのおかげ、これはもういよいよ限りないおかげにつながる。もちろんです。そういうおかげを頂いて限りなく御用をさせて頂ける。信心をそれこそが、神様に喜んで頂ける信心だと思う。どうぞ。